『噂の二人』

1966/アメリカ


chailds
監督:ウィリアム・ワイラー
カレン:オードリー・ヘプバーン
マーサ:シャーリー・マクレーン

 観終わったとたんに拍手喝采、ブラボー、スタンディングオベーション!

 上質の舞台劇を観たような緊張感と迫力。

 それもそのはず、原作は、ウィリアム・ラフヘッドの小説、それを元にしたリリアン・ヘルマンの戯曲「子供達の時間」。しかも1936年に「この三人」の邦題でウィリアム・ワイラーが映画化。セルフ・リメークである。

 「この三人」では、時代的に原作通りに映画化できずに、原作者自らが脚本を書き換えて製作。

 1961年になり、やっと原作通りの脚本で再映画化、ウィリアム・ワイラーも力が入ったことでしょう。


 話題は何といっても、ヘプバーン、マクレーンの二大女優の共演。

 シャーリー・マクレーンの迫真の演技は、圧倒的に素晴らしい。それは相手役がヘプバーンだったからこそ、よりリアリティを増したのではないか? ヘプバーンの美しさは眩しすぎるほど。

 ラスト近く、訪れた老婦人と対峙するヘプパーンのりりしさ! ラストシーンの表情!

 演技といえば、子役の演技の素晴らしいこと。本当に憎たらしい(笑)


 良く性悪説で持ち出される、子供は本来残酷なものである、という言葉。実は私嫌いです、では性善説派? と聞かれればNOと答えます。人間は本来、善も悪も兼ね備え、共に胸に抱えて産まれてくるものでしょう、そしてその時々の環境(家庭環境や人間関係、些細な一言や、社会的事件等々)によって、善の面が表に現れたり、悪の面が表に現れたりするのではないでしょうか?

 人間は本来自分の持っている物、趣味・嗜好・特性・才能などを知らずに生きているのかもしれません。自身の可能性に、自らふたをしているかも。マーサが自身の内面に向き合うシーンを観て、そう感じました。

 そして主役の二人を取り巻く環境、異質なものを排除しようという風潮は、現代でも全く変っていません。まるでこのネットワーク社会を映し出すかのように。

 インターネット・コミュニティの中で、異質なもの、自分達と考えが違う者、価値観の違う者を、個人攻撃したり、集団で嫌がらせをし、コミュニティから追い出そうとする人たち、又はそう先導する人がいることは、明白でありましょう。これはパソコン通信の時代から、またこの映画が製作された 1961年から、あるいは原作通りに製作できなかった1936年から、ひょっとすると人類が誕生してから、もしかすると生命誕生の時から、全く変っていないのかもしれません。

 しかし、だからといって性悪説を支持するつもりはありません。私たちは価値観の違う人たちを受け入れる、寛容性も持ち合わせているからです。

 現代に横行する、言葉、力による暴力の応酬に対抗するのは、他ならぬ私たち自身の中に眠っている、まだ気付かれていない力なのかもしれません。


カレンのセリフ
「言葉って怖い…………今までと意味が違う」
「きっと本当ねでも心の中までは覗けない」


 カレンにとって、自身の世界観が大転換した瞬間でしょうか?

 私たちは相手の内面を想像するしかないのです。この想像力こそが、言葉による誤解を生み、また他者を受け入れる寛容性となるカギではないかと感じました。


 Nozomiの評価は★★★★★(五つ星!!)久々に原作を読んでみたい、と強く思う、本当の意味での良い映画を観ました。傑作です!

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